橘劇団@梅田呉服座11/9昼のお芝居「明治一代女」

三代目の長編女形狂言。ミニショーなし。
女としての意気地を立てるために自らを犠牲にする悲哀と、劇場、そこに立つ芸人に対する憧憬、一人の男を愛する女の心の美しさ、人のエゴの醜さ、愚かさ、しかしだからこその人間らしさを感じる芝居。
初めて見たのは多分篠原演芸場。あの劇場で見たからというのはあれ、その時の衝撃を忘れられない…でもなかなか当たれない外題。~ブログの使い方が全然わからないのでとりあえずTwitterに投げてたやつサルベージ加筆修正編~
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  • 【配役】(メインだけ)

お梅…大五郎さん
太夫…良二さん
巳之吉…小次郎さん
秀吉…きよみさん
歌舞伎ブームコンビ…ゆきえさん&京ちゃん

お梅はほんとにかわいい

見出しってこれでつけられるの??
幕開き、太夫の部屋の障子の前に立つお梅。が、ちょーーーーかわいくて開始即天才だった。
太夫に会うためにちょんちょん、って髪をつついて小首かしげて身なり整えて、表情もきりっとしつつかわいい顔(プリティレディフェイス)になってから部屋に入るお梅可愛すぎたわけで!!
どうかしら?大丈夫かしら?ってお梅の動きの細かさとか滑らかさとか…愛らしさが絶妙なうえ、踊っているようにも見えてほんところころしてて最高に愛おしかった…そりゃ太夫も惚れるて…。
とにかくかわいいお梅からのとにかくかわいくてもはや妬けるとかじゃなくニヤつくしかないお梅と太夫のいちゃいちゃから始まるの、へんに二人を可愛く思っちゃうからやめてほしいんだよな…。
満座の席で恥をかかされるあたりのお梅もね、かわいい。毅然と秀吉に意見するお梅には気位の高さを感じて、そんな気位の高いお梅が太夫にはめろめろなの思うとより一層かわいい。いっそ太夫がむかつく。
太夫を見ているお梅はすごくうれしそうで…不安そうな顔がのぞくときもやっぱりかわいくてほんとにかわいい。お蔦ちゃんとはまた違うかわいさがある 凛としたかわいさ 美しくて気高くて粋もあって、男女の痴情のもつれ・複雑な人間関係・愛憎を描いた作品だけどどろどっろというよかはどこか硬質で、そんな作品のカラーによく似合う硬さのあるお梅。
でもそんなお梅なのにとにかくかわいいぜ…ってなっちゃうくらい些細なところでかわいい。いみわからん
特にこの話にオチはない

みのさんについて

今回、小次郎さんのみのさんが初見。今まで見てたのは裕太郎さんだった。
裕太郎さんのみのさんはちょっとサイコっぽいけど若さがあって、いやだから無鉄砲で考えなしな感じがあり結構怖かったんだけど(好き)、小次郎さんも小次郎さんでどことなく不気味さが強くて好きだった…。
お梅にすがる時は弱々しいのに、拒絶されたら急に声色も空気もがらっと物騒なものに変わるから普通に怖い。やばめな人なのが伝わる。笑
だからお梅がみのさんを不慮の事故で殺してしまっても、それがお梅だけの罪として捉えにくくなるんだよね。あくまでも「不慮の事故」「過失」「殺す気なんてなかった」。みのさんがあまりにもお梅に無理強いをするばかりに、それを引き剥がさんとした勢いで刃が立ってしまった。ここ、みのさんに良い人そうオーラというか、人畜無害、お梅に対して危害を加えない存在として感じ取られる演じ方すると、お梅の罪が重くなって、我々がお梅に感情移入しにくくなっちゃうんだよね。何の害もない良い人を自分の恋のために故意に刺した女の恋路なんかわたしは応援しないっすよって感じなので。だからここ、裕太郎さんとか小次郎さんのみのさんから感じるえもいわれぬ違和感みたいなの、めちゃくちゃ正解だよなと思う。

でもそうやってお梅に感情移入すべき芝居かなと思うからその感覚でも正しいんだろうけど、みのさんはなんでこう(お梅のことが好きなのに、お梅の恋を認められず、弱味をつくって無理矢理に自分のものにする、好きな相手のことを慮れない自分勝手さをとても感じる)なのかな〜ってのはずっと考えながら見てて、舞台で見える範囲ではお梅は悪くないように見えるけど、実はみのさんからお金を借りるために、「騙すつもりじゃないの」と言いながら、言い聞かせながらもみのさんを騙すように甘い言葉をかけたり、気のある素振りを見せていたのかなと思ったり。そしたらそれはそれでお梅の罪だよなと。芸者らしいといえば芸者らしいけど。男と女〜〜あ〜〜やつりつら〜〜れ〜〜ってやつね、でもお梅はそんな子じゃないと信じてる太夫のためにも(?)
あとカテコでお梅と太夫と並んで頭下げるみのさん見てて、この人も悪人ではないしこの人を理解したいと思ったのね。多分誰でもみのさんのようになる可能性はあるし。舞台って見えるものが全てだけど全てじゃなくて難しいね、現実もそうではあるけど、舞台の見えないものって無いはずなのに、あるんだもん、現実より難しいよ。何の話だ?

で、やっぱりカテコっていいよね!!舞台見た感動が最後の最後に一気にそこで高まるし感情が凝縮されるけど、没入して一体になっていた舞台と客席に明確に線引きがされる感覚があるからか、芝居を急に俯瞰的に捉えられて、こうやって急に別の視点を得られるような心地がする面もあるというか。まあ単純にテンションあがるから好きなんだけど。

お梅の物語の幕引き

今回見ていて印象に残ったのがカテコ前、ようは最後の幕の最後、お梅が手錠をされて太夫の前からいなくならんと歩むのに合わせて舞台の幕が引かれていくシーン。
こういう物語の主役が自分で幕引きしていく演出めちゃ弱くてたまらなく好きで、でもこの月にもう一回行った梅田で見た遠山の金さん(江戸の桜吹雪)のラストも似通った感じなんだけど意味合いが多少異なったりして面白いのね…。
金さんは裁きを終えて一件落着、遊び人の金さんとしてひょっこり飛び出してきて、ここまでのおはなしにおしまいおしまい、めでたしめでたし、って語り役的に幕を閉めてくの。紙芝居の話役みたいというか、物語の中にいたのに外にも同時に存在してて、わたしたちと同じ目線から物語を話してくれる、なんだろ、なんかこっちに寄り添ってくれてる存在なんだよね。「話おもしろかったー?」って聞いてきそうな。送り出しの三代目か?って感じなんだけど。
お梅のそれは全然こっちに対する視線なんかない。ただそこでお梅の生きざまを見せつけられて、勝手に幕を閉じちゃう。それがとにかく、お梅がそこに「生きていた」という感じがする。お梅がそのあとどうなろうと、この先何年生きようと関係なしに、ここで彼女の人生という物語はおしまい。舞台の幕引き=人生の幕引きで、その幕引きをお梅がやることで人生を物語化しているのに、なのにお梅はこっち側にはいなくて100%向こうの世界にただ生きてた人間なのね、まったくうまく言えてないけど!!!金さんとは違う性質のそれがものすごく美しく感じられたんだよね~~~~~……
明治は「お梅の物語」、お梅という一人の女性の人生という舞台、という感の強い作品だから殊更この演出、似合うんだね…。

舞台の空間は狂おしいくらいまぶしい

この芝居、カテコもぐっとくるけども見るたび刺さるのは、太夫の名前替えの披露の舞台をお梅が客席には入らず遠くから愛おしそうに見る場面。
舞台の光に照らされて伸びるお梅の影、光と影の演出が何度見てもたまらんのだけど、ほんとにすーーーーごく切ないのね。

橘さん見始めて最初の篠原公演期間、初めて仕事終わりに駆け込んだ時にもう始まっていた芝居の音が篠原のあの後ろの扉の隙間から漏れ出ていたのを聞いたとき、その時に感じた狂おしいくらいの芝居の空気に対する憧憬のようなもの、それと明治のこのシーンがどうしてもリンクする。いや別にわたしお梅のような立場の人間ではないけれど、舞台が支配している空間から一歩引いてそれに触れるときって、中にいるときには感じない不思議な感覚を覚えるの、で、それがほんとに自分が中にいたときにどれほどに愛すべき空間にいるのかってのを痛いくらい自覚させるんだよね。

それでその光をまぶしそうに、愛おしそうに見つめながら、お梅が太夫の屋号を呼びかけるんだよね。もう二度と会えないかもしれない大夫に。
これでお梅の女の意気地は立ったのかもしれないけど、一人の女として、人としてお梅は幸せだったんだろうかとか。
お梅にただそばにいてほしかった大夫はこれで幸せだったんだろうかとか。
幸せってなんだっけ的な……どうしても考えてしまうよね ほんとすれ違うのやめてほしい、ちゃんと話し合う時間あったんだから話せよと思ってしまうな LINEとかあったら違ったんだろうか でもお梅絶対大夫のこともみのさんのこともブロックするじゃん……みのさんめっちゃ未読なのに送りまくってそう…何の話…

すれ違う男女の悲哀を描いているけど、どうにもこうにも彼女の物語性や舞台のまぶしさが刺さるお芝居。
舞台の外に置かれる疎外感、でもその疎外されている空間に対してぎゅっと胸の詰まるような愛情じみたものを抱く感覚、光のまぶしさ、愛おしさ、あのお梅に勝手にめちゃくちゃに感情移入してしまうの、絶対観劇おたくわかると思う。知らんけど。舞台って近くて遠くて、一緒だけど離れていて、とっても尊い

副座長に言いたいこと

まあとりあえず言いたいことは最後役者姿で出てくる良二さんのビジュアル(カブキ風フェイスに紫と白の裃)最高に好きだから夢芝居踊るときあれでお願いしたいんだよなってことです………………………それか口上で写真撮りたいんだな…………………です。いつか頼む、副座長。